クリスマス記念に前世の話

さてイブのこの日、キリスト教関係の前世の話をします。

 

以前、アカシック・リーディグを読んでいただく『ヨハネ・リーディング』で「イエス様やお弟子たちが活動していた紀元一世紀に私は受肉して生きていたでしょうか」という質問をさせていただいたことがあります。

 

その時のお答えは「ローマ帝国に生きていました。ただ、イエス様の傍(そば)について歩いていたということではなく、エッセネ派での学びに合うものがあって、熱心でした。エッセネ派は、キリスト教の母体となったユダヤ教の一派です。修行第一の厳格な、神秘的な一派です。

 

イエス・キリストの伝道が始まってからも、あなたはエッセネ派の中で修行に専心していました。それでも、イエス様がエッセネ派で一目置かれ確かに救世主だと、エッセネ派で認められていたので、あなたもイエス様をメシアだと直感し、第一に置いていました。しかし、あなたは行が好きで、合っていたのです。

 

また、イエス様の元に馳せ参じなかった別な理由は、自分の置かれた状況や、生活を捨ててはならないと感じていたからです。他の理由として、イエス様は凄すぎるので、恐れ多く、自分ごときが近づいてはならないし、近づけないという思いが、自分の中にあったからです。それで遠巻きに、イエス様といい意味で距離を保ちつつ、エッセネ派の中で行をしていたのです。

 

イエス様のご活動はすぐに終りました。三年間ほどで。それで、あなたは少し後悔しました。そんなに短い活動期間だったなら、もっと大切にすれば良かったと思えたのです。しかし、すでにイエス様は十字架に架けられ、その後復活し、昇天して、天に還られました。それで、どうしようと思い、考えていた時に、何人かの友人が、いろいろ心配して教えてくれました。

 

イエス様の系統の中で、奥深く、本当のものを受け継いでいるのはヨハネ派だ、ということです。それなら、エッセネ派からヨハネ派に移って、せめてイエス様の後に、イエス様の深い精神を継承しているヨハネ派でご奉仕したり、一緒にお祈りしたり、学んで、人生を成し遂げようと決めたのです。

 

そのようにして遅ればせながら、クリスチャンの中に入って来て、今度はヨハネ派で、預言に耳を傾け、神秘的なユダヤ教とキリスト教を一つにしたヨハネ派で、残りの修行に励み、ヨハネ派の仲間に加わって、人生を全うしました」ということでした。

 

イエス様が活動しておられた時代に「確かに救世主だ」と思っていたというのは、私にとって嬉しいことでした。その時代、そう思っていた人は少なかったからです。それから聖書を読んでいても、このイエス様のお話を聞いている人の輪の中に自分もいたかもしれない、と考えるようになりました。

 

それからそれ以降のことも、最近のリーディングで語られました。

 

「ヨーロッパでのキリスト系の生まれ変わりもあなたにとって重要なものでした。まず、ドイツの西部、フランスとの国境付近における、あなたのキリストの愛の目覚めがありました。

 

当時、エックハルトがキリストのパワーを教会の中に甦らせ、キリスト直々のものを携えて入って来ました。それまでの教義中心の形式的で固い感じの教会や修道院において、それは驚くべきことでした。キリスト教関係者はなんのことかわからず、ただ凄い迫力や雰囲気、また聞いたこともない教えだったので、判断がつきかねていました。

 

それでも素晴らしいものが感じられたので、最初のうちは評価され、求められていました。しかし、次第に影響が及び、警戒心が生じて、エックハルトが亡くなった直後には正式に異端視され、その教えの継承が危うくなって来ました。

 

あなたは当時、修道院で学ぶ者の一人でした。エックハルトの教えを聞くのが楽しみでした。教えの内容は半分くらいしかわかりませんでしたが、感性であなたはしっかり受けとめ『これは新しいものだし、むしろキリストはこういうものではないだろうか』と、あなたは充分に確信を抱くことが出来ました。

 

教えの難しい説明の細部に亘るところはわからなくても、ところどころはわかるところがあり、『それは本当だ』とうなずけるものでした。また、その雰囲気とか体験の話も真実だと思えました。そのように語る者は他にはいませんでした。雰囲気やパワーも充分に感じられました。

 

しかし、背後の権力者たちの画策によって、またエックハルトご自身も高齢となり、姿を見せなくなりました。そのうちその死去が知らされ、あなた自身、力を失い、生きがいや指針を持てない難しい状態になりました。

 

しかしそのような状態がしばらく続いたのち、わずかに後継者がそれぞれ動き始め、『何とか、師匠の教えと精神とパワーを後の代にも続けていかなければならない』と思って動き出している宗教者のいることを聞き知りました。それであなたは、そのような人を探し求め、尋ね、何人かのそのような者の話を聞きました。

 

特にヨハネス・タウラーの話は、師匠の話に近く、また優しい波動が感じられ、『確かに師匠の生命は途絶えず、継承された』と確信を持ち、『神様は本当のものを放って置かない』とつくづく感じられて、うれしくなりました。

 

そのようにあなたが、偉大なる師匠のエックハルトから始まり、その後まであなたが生きたため、後継者の動きに注目し、『何よりも背後におられる同一の神様が御業をなさり、それを続けておられるということが大事だ』と理解しました。そのようなあなたの関わりによって、その流れが発展して行ったスペインに、転生して行ったのです。

 

なぜなら、タウラーやゾイゼの流れがスペインにも及び、その影響下に十字架のヨハネが現れたからです。そのような経緯と事情によって、あなたはドイツの後、スペインに転生しました。ドイツではドミニコ会でしたが、今度は同じカトリックの中でもカルメル会でした。

 

あなたは修行に専心するのが合っていたので、それを神に願い、それが許されて、ふたたびスペインのカルメル会の修道尼の一人となりました。アビラのテレサが作った、改革カルメル会の修道院です。

 

十字架のヨハネは修道士で男性でしたが、テレサに見込まれ、頼られたため、その経緯によって、女子カルメル会の修道尼たちの指導や訓戒をヨハネはテレサから一任されていました。そのためヨハネは女子カルメル会の幾つかの修道院を訪ね、講話をしたり、指導にあたっていました。

 

そのためシスターとしてのあなたは、ヨハネの話を聞き、信仰の理解を深め、導かれました。とてもわかりやすく、安心できる教えや雰囲気でした。それによってあなたの信仰が深まり、また純粋化し、また理解もドイツの時よりも随分進みました。』

 

というようにキリスト教に関わる前世が出てきました。(リーディングは長いので、一部省略してあります)

 

それから仏教関係では「インドでの生まれ変わりも、あなたにとって重要です。インドの龍樹の時代、ナーガールジュナの大乗仏教運動が、あなたに与えた影響がありました。空について、あなたはとても驚き、偉大なる深淵が真理だと思えました。それが当時のあなたのインドの前世にとって重要なことでした。

 

あなたはもっと徹底したいと思うようになりました。そのため神に許され、その二百年ほど後、ふたたびインドに転生できました。空の精神を踏まえ、人間の心を追求する唯識が説かれ始めていました。そこでヴァスバンドゥの教えに触れたのです。

 

自分の心を見つめ、心の根底に、空の働きを感知しました。それはちょうど、ヨーロッパのドイツで偉大なる師匠の教えを聞いた後、タウラーが師匠の教えを引き継ぎ、魂を追及して内省し、魂の根底に神様を見出した、その教えに近いものでした。

 

そのようにしてヴァスバンドゥによって、あなたは自分の中にある神の働きを感じることが出来たのです。内省の大切さや、深まりの大切さを確信しました。そのご縁によって、日本の鎌倉時代、法然と栄西の感化のもと、関東にあなたは生まれました。そして第一期の鎌倉仏教の師匠の教えの感化の後、あなた自身もう少し生きたため、第一期の師匠の後、第二期の親鸞たちの教えを受けました。」

 

今神道中心ですが、キリスト教を学んでいた前世も仏教を学んでいた前世もあるのです。何を言いたいかというと、人は輪廻転生する中でいろいろな人種や宗教を体験してきているのです。それは魂の奥深くに沈んでいます。そう考えると、今現在の自分の表面的な人種や宗教の違いでいがみあったり、争うのは無意味なことだと思えて来ます。世界は一つで動いているのです。お互いの違いを乗り越えて、互いに認め合い、愛し合うことが出来るでしょう。

 

 

 


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私は知りたい、人間の純心。
 

いろいろと悩んでいる私に、760年以上の時を超えて、親鸞から手紙が届く。

 

「自力でいろんな行を修めて、極楽浄土に往生しようとするよりも、他力の信心によって、阿弥陀様に全部お任せして生きなさい」「本当の信仰を得ることを自分の中で大切にしなさい」「救いが定まるのは、信仰が定まった時なのです」と。

 

「今ここで、自分の信仰が定まれば、もう救いも定まる。阿弥陀様に収めとられて、そういう方を阿弥陀様はお捨てにならない」「信仰が定まるその時に、極楽往生も定まる。阿弥陀様が迎えに来てくださる。そのための儀式や儀礼を当てにする必要はありません」。

 

「正念というのは、弥陀の本願を信じきることを言うのです。私たちはこの信心を得るゆえに、かならず無上涅槃にいたるのです。この信心を一心と言います。この一心を金剛心と言います。この金剛心を大菩提心と言います。これがすなわち、他力のなかの他力であります。」

 

行をしているのは自力の念。自分が何とかなりたいともがく。そうではない、自我が放棄されて、自分の計らいが無くなった時にこそ、他力の働きが作用を起こし始める。自分を超えた、大いなる存在の下で生かされている。感謝して、大いなる存在を尊んで委ねる。自力を尽くした果てに、自力が機能を停止して、他力が働き始める。

 

自力の計らいを捨てて、一点の曇りもなく、純粋な存在になった時に。

 

宇宙は、大いなる存在は、神仏は、人類を育て上げようと愛情に満ちた救いの手を伸ばして「こちらにおいで」と見守ってくれている。私たちは信じてその手にすがりつくだけ。

 

私は知りたい。人間は霊的な存在だということを。その深い意味を。


 


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死後の世界
 

今日、電話で86歳の友人と話をした。

Yちゃんは「瞑想している時は、体の痛いのも、具合が悪いのも全部忘れているんだけどね」というので、「じゃあ、大丈夫だよ。死ぬときは瞑想している状況と同じ様になるというから、上手に死ねるよ」するとYちゃんは、「お医者さんに、『生まれて来るときもなかなか大変だけれども、なかなか死ぬのも大変ですよね』というと、そんなこと言わないで・・・とか言われるけれども、カルマを果たすまでは死ねないから、最後までお祈りと瞑想をするしかないんだよね」と、言う。

私たちは、死は肉体がなくなるだけで、本質である魂や霊は変わらないと知っているから、普通の会話のように、死を語れる。顕界から霊界(中間地点の冥界、幽界も含めて)にエネルギーが移行するだけだと知っているから。

この世に執着や強い思いを残していなければ、迷わないで逝ける。瞑想はそのための練習。神様の愛に包まれて、感謝しながら逝けるといいね。瞑想の最後にお任せして、自分を委ねるような具合に。

霊界でも、学びや浄化のためのカリキュラムやご奉仕、仕事があるようだから、この世と同じようだね。何回も死んで、霊界に行っても、毎回、ちっとも覚えていないんだから、どうよぉ。

平均250年ぐらい間隔で生まれ変わって来て、平均80年ぐらいしか体を持って生きていないんだから、アチラにいる期間のほうが長いのにね。まるで物理的領域しか存在しないように思っているなんて、アホだよね。

魂の世界と物理的な世界を交互に生きて、最終的にはまったく両界とは違う、まったく純粋な霊の世界、永遠の世界、根源の世界に還っていくのですね。

縁があれば、また出会える。忘れていても(なんとなく懐かしく感じる人だなぁ)と心は感じるもの。

「霊界に行ったら、どんなところか教えようか」と、Yちゃんが言うので、「出てきてもいいけど、ビックリさせないようにしてね」と言っておきました。






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今日は浅野信氏の講演会に出かけました
 今日は、浅野 信さんの講演会に出かけました。
「自力 ・他力 ・一力」〜他力を経てONEへ〜というテーマでお話されていました。

親鸞さんが「絶対他力」を勧めたときに、自力は駄目で、いらないものであると間違えて捉えた人が多かった。(わたしもそうかもなぁ)自力を極めて、自力を徹底して、純粋な他力へと移行していく。そしてまた、他力を極めて、徹底して、他力の果てに一力へと変化していく。

自力という枠の中に、他力(大いなる存在、もしくは神仏のお力)が流入してきて、生命エネルギーの質的変換が行われてくる。だんだんと大いなる存在と一致してくる。つまり100%自己否定して、大いなるお力に身を委ねる。完全に包摂される。

行をおこなう時に、どうしても自力で変化を起こそうと、もがいてしまうのだなぁ。先々週の木曜だったかな、瞑想のときに、普通に言われている瞑想と違って、本当の瞑想になるには、他力の流入がなければ、本当には瞑想に入ったと言えない、という話になりました。チャクラに集中とか、呼吸法に集中とか、人間の作意が働いている限りは、瞑想ではない。また、ぼぉ〜とした意識状態が瞑想ではない。よりクリアな意識状態に推移するのが、瞑想の深まり、という話も。

今日の話でも、あと30万年くらい生まれ変わりして学べば、神人合一に至るかもしれない。ということです。この宇宙に終わりが来るまで、人類全体が救われるのかしらん?

でも、その時に向かって、人類全員が自分の学びに取り組んでいる姿が、今の地球なのだから、みんな悪戦苦闘していますね。どの人も、どの人も、全員です。

今日のお話の中で、マルコ、マタイ、ルカの福音書は、完全無欠な人間として、人間イエスのことを語っている。ヨハネの福音書は宇宙創造神と一つになられたイエス様の話を、創造神の観点から霊的に描かれている。と言う話がありました。家に帰って来て、ヨハネの福音書を少し読んでみました。「おお〜、この微妙なニュアンスの違いはそこだったのかぁ〜」と思いました。この観点から読むと、面白いですよ。だから、ヨハネ福音書のイエス様は、まるで自分が神であるかのように、神として語っているんですね。一致していたわけです。だから、復活できたのです。キリストとして。おお〜。

釈尊やイエス・キリストのように、宇宙創造神と合一して、宇宙創造神の世界、無とか空の世界、さらには絶対界のことを体感し、知りたいものです。30万年先かな。ううっ、先が長すぎ・・・・。


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久しぶりの瞑想クラスに全然坐らずに行ったぜぇ。
 
木曜日はお店の定休日にあたっていたので、久しぶりに瞑想クラスに出席しました。作品作りが忙しくて一ヶ月半くらい坐らずに行ったぜぇ。無謀だろう〜?

・・・と思ったら、これが案外、気のバランスも崩れていなくて、心も静まっていて、良く坐れました。初めての場所で、初めての人々と出会ったり、混雑した街を移動したりしているのですが、影響を受けていませんでしたねぇ。歯医者さんにも行っていて、治療中だったのですが、これも影響がありませんでした。瞑想を始めた13年くらい前は影響を受けていましたが。

やるべきことを超作で行っている日々というのは、ずっと毎日坐っていたくらいの効果が心身にあるのですね。結果を求めずに無我夢中で行う。そのことが毎日瞑想1時間くらいの効果があるわけです。行をすることだけが目的というのは、案外、自分に堕ちているものです。それなら日常生活をどう生きるか、日々どのような心境で過ごすか、それが心身霊にも影響を与えるわけですね。

祈りも瞑想も日常も大切だということです。前世はかなり行に堕ちていたことがあるので、今、普通の生活の中でどのように生きるのかを学んでいる途中です。私としては、毎日坐っていないのに気の次元のバランスも崩れず、アストラル界からの影響も受けないというのは、かなりなオドロキとともに勉強になりました。

信心が崩れない。そのことに少し確信を抱き始めました。

それでも、相対界でふたつの異なるプラーナとクンダリニーを混ぜようとしている自分がいるし、チャクラへの集中が深まっても、チャクラとそこに集中しようとしている自分がいるし、アジナに集中しても、大いなる宇宙存在と、この私がいる。ひとつになれない。二元論を超えられない。これでは合一が出来ない。本物の神体験にはまだまだなんだな、これがっ。

嗚呼〜「空」を理解したい。空を体感して理解したいんだよ。相対界は、無い、ことを。

んん〜これも方便だ、方便だ、全部。未だ方便の域だな。

あはっ、スゴく、パンクな気分だよ。18歳のころと同じだな。高円寺だからな。埴谷雄高でも読むかな。

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自力と他力
 ここ2〜3年、瞑想や祈りなどの行に関して行き詰まりを感じていました。13年目のスランプか、と。

それがここのところ、いろいろな人の口を使って「自力ではどうにもならない。すべて他力で行う
ことだ」と言うメッセージをいただき「自力で頑張って行うことで何とかしよう」と思っていたことが、行き詰まりを感じる原因だったと気づき、なるべく自力を抑えて他力で行うことにしました。

行や祈りだけでなく、普段の生活も他力で行うようにしてから、現実の問題の解決も滑らかになり、ジタバタしなくなりました。心に湧いて来る不安や心配事もなくなり、楽に生きることが出来るようになりました。

瞑想も呼吸法でジタバタあがいて、自分の中だけにこもって頑張ることがなくなり、他力に合わせるようにしてから、スシュムナの通りが良くなりました。楽に坐れます。

瞑想の講師談によると、自力と他力のバランスを取ることが大事だと言うことです。私は前世の行者だった経験から、どうにか頑張って自力で行おうとするほうが強く出てしまうのです。ところが、自力ではなんともならんわけです。神仏の他力があって、生かされて在るのですから、他力によって引き上げていただくのですね。

現実世界の問題においても事が起きたら自力でジタバタせずに、まずは受け止めて、起きた事柄を体験し味わいつつ、ご縁のある神仏に祈りながら、通過させていただくことです。もちろん誠実に対処していくことが大事です。誤魔化したり、嘘をついたり、逃げたりしないことです。

誠実に対応しながら、お任せする。このほうが早く良き方向に解決していきます。自力で流れを捻じ曲げようとしても、力尽きるだけです。物事は必要があって起きてくるのですから。

絶対他力の法則を忘れないで、常に応用していくことでスムーズに生きて行けるように思えます。

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永い永い時間を旅する我々の魂
 『KAROL』の映画の中で、第二次世界大戦のナチスの支配化、地下劇場でポーランド語の演劇をしていたKarolが偶然出会った老人から、十字架のヨハネの著書を一冊渡される。おそらく「暗夜」

「おっ」と思った。前世リーディングで、前世の一つはスペインで「十字架のヨハネと共にあった」と言われてから、十字架のヨハネの本やアビィラのテレサの本を買って、枕元に積んである。
読まねば!

T神社でも十字架のヨハネの霊性の高さを評価し、教えに触れている。その縁ある十字架のヨハネの本を買ったはいいが、積んである。宝の持ち腐れよ〜。

十字架のヨハネの本はヨハネ・パウロ2世にも影響を与えたのだ。
読まねば〜!!

前世を知ることは、世界平和に繋がると思う。自分のこの魂は色々な人種や宗教を経て、体験して来ているのだから。私の場合は主にエチオピアやエジプト、インド、タイ、ベトナム、モンゴル、日本、と中近東から東南アジア、北米、南米大陸に亘っている。宗教も、シャーマニズムから古代エジプトの一神教、日本の修験道から、鎌倉初期の禅宗、阿弥陀信仰、神道、キリスト教と色々な宗教を辿ってきている。

人種や宗教を超えて、輪廻転生はなされてきているのだ。だから、人種による差別や宗教の違いによる対立は無意味であるのだよ。

全世界の人類が輪廻転生を繰り返ししながら、神の愛で育成されているのだ。神の前では平等だ。
大いなる神様のお働きの前で、人間は謙虚にならねばならない。神によって生かされているのだから。



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螺旋迷宮で青空の下の花園を夢見る
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何度、それとなく…と言うかむしろハッキリと指摘されても改まらないもので、前世の傾向というのはすぐに頭をもたげて来るのです。

私の場合、行者だった時の影響が強いので、肉体を使った行に馴染みが深く、すぐに自力で頑張って何とかしようという考えに陥ってしまいます。


ここ最近の状態、瞑想をしても、お祈りにしても自力の行いになっているからこそ、霊性に届かないのに、絶対他力の法則を忘れて、自力になってしまう。


霊性を引き上げていただくのは神にしか出来ない。行や祈りの中でお力をいただいて満たされるのは、神から来る愛だからです。

昨日の晴佐久神父様の「自力でしているうちは、神は自力を強めてはくれなかった。自力は砕かれた」というお言葉で、再度、念押しされました。

神にすべてを明け渡す。自分の呼吸も自力ではなく神様が働いてさせてくださっている。自分の感情ですら、もはや自分のものではなくなる。

すべてを委ねきる。それが信仰のかたち。他力とは神仏のお力。自分が無くなり、神の器となった時に、神の愛が満ち溢れる存在になる。

なぜ、身体を使った呼吸法やチャクラへの集中をしながら、自力でするのではダメなのか。自力を超えねばいけないのか。自力じゃなくてどうすりゃいいのだ。嗚呼、ジタバタジレンマ自分に陥る。


どうしたって己れが残る。
己れが無くなるのは、どこか怖い。怖いのは、お任せ出来ないから。神に絶対の信用を置いていないから。神の愛の中で生かされて在る事を自覚出来ないから。おお、ここでもパラドックス。


ずっとこのあたりの迷宮にいて、螺旋階段を昇ったり降りたりしている気がする。

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「この世的」な問題に心を奪われて
 ヨガ&瞑想のクラスに出ましたが、「この世的な」気がかりが幾つかあったので、心的エネルギーがそちらに奪われて、霊的な感性が働きませんでした。自分の霊性に触れることが出来ないというか。
瞑想に深まりがありませんでした。

霊的な感性というのは、幽霊を見たり、声を聞いたり、みたいな能力のことではなくて、神仏の存在や働きに触れる事の出来る感性とか、自分の中の霊性に触れることの出来る感性です。

ちょっとしたことで、この世的な悩み事や不安にエネルギーを使ってしまいます。
そうすると瞑想したり、祈ったりすることにエネルギーが使えなくなる。
人間というのは微妙な存在です。

感情というのは大きなエネルギーが動くのですね。それで胃がおかしくなったり、心臓にきたり、肉体にも影響が現れてしまう。

心身霊のバランスが取れるようにするには、経絡体操や呼吸法や瞑想が必要なんですな。




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なくしたくないもの
 珍しく朝から洗濯をし、ホットカーペットの上で惰眠を貪る猫を起こして、散々モンクを言いながら逃げ惑う猫を追いかけるように掃除機をかけて、夕食のカレーを仕込みながら、ふと、こうした何でもない日常を失って苦しんでいる方々が大勢いるんだ・・・と考えました。

何でもない、いつもと同じ日常。そんな中にこそ、大切な、感謝するべきものがあるんだなぁ・・・と思いました。退屈とも思える日常。繰り返し同じことをしているように見える日々が実は、もっともなくしたくないものだったんだな。。。。と気づく一瞬。

失うまでは大切なものだと気づかない事もある。

愛情表現がヘタクソな友人が、実は自分を大切に思っていてくれたんだな。。。と気づく。彼女なりに心を開いている状態だったんだなぁ。

強気でプライドが高く見える知人が、実は陰で病気で苦しんでいたんだと知らされる。精一杯の自己主張であったのか・・・・と気づく。

一方向から見ていただけでは、わからないものだ。家族にも、友人にも、知人にも、あらゆる人間には長い時間重ねてきた背景があって、今のその人が表現されている。一人ずつ違いがあって、深みがある。それを考え、認めて、理解し合いたいものだなぁ・・・・と考えました。

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